ホーム最終戦のタイミングで、アーロン・ラムジーのさよならメッセージがオフィシャルサイトに公開された。
Aaron Ramsey | In my own words
「アーロン・ラムジー/自分のことばで」
かなり長文で、それをあますことなく掲載したことにAFCオフィシャルの彼へのリスペクトが見える。
日本語訳においては周回遅れの可能性もあるが、ぼくも自分のことばでここに残しておきたいと思った。※小見出しの一部は訳者による。
ぼくのことを語ろうか。アーロン・ラムジー
「アーセナルでの初日? イエア、あれは人生のなかでも最高にビビりまくった日だったよ」
とにかくまるでちょっとした嵐って感じだったんだ。FAカップのファイナルでカーディフの一員としてベンチからプレイすることになるちょうど一ヶ月前のこと。ロンドン・コルニーの駐車場にずらりと並んだスーパーカー。その隣に車を停めてさ。
そこに並んだスポーツカーを見て、ああ、ぼくはなんてとこまで来ちゃったんだって実感したよ。だってケアフィリー(※ウェールズの地方都市)からやってきて、うちの車はライムグリーンのフォード・フィエスタだったんだよ? でもほんとに衝撃だったのはそのあと初めてドレッシングルームに入ったときさ。ぼくはそれまでずっとカーディフで過ごしていて、まだそのシーズンにレギュラーでプレイを始めたばかりだった。でもそこはもうプレミアリーグのトレーニンググラウンドで、インターナショナルな選手たちばかりだった。ただもうシュールな感覚だったよ。
ぼくはそのとき17才で、ぼくが考えてしまったのはひとつのことさ。「彼らはぼくのことを覚えてくれるだろうか?」だってカーディフでも片手で数えるくらいしかプレイしていなかったんだから。正直云ってほとんどの選手はぼくのことなんか聞いたこともないに違いないって思ってた。プレイしてるとこなんか見てるはずもないってね!
いまではちょっと記憶はあいまいなんだけど、ドレッシングルームに入っていってたしか自己紹介をしたんだっけ。セスク・ファブレガス、ウィリアム・ギャラス、ロビン・ファン・ペルシ、それにトマス・ロシツキといった選手たちがそこにいた。彼らはみんなすごくて、エスタブリッシュな選手たちだったよ。だからそのときは彼らが自分を見てどう思うかばかり気になってしまって。彼らはぼくをこんなふうに見ていたな。「こいつはいったい誰だ?」
カーディフからアーセナルへの順応
そのときにぼくは理解したと思うんだ。まず最初の数週間はとにかく目立たないようにして、彼らのリスペクトを得られるようがんばってトレインすることにしようと。実際それがぼくにとってはカギになったんだ。ぼくはおとなしくしながら自分のワークをこなして、ことばではなくフットボールで語ろうとしたんだ。多くのひとたちは、そのときのぼくがそんなシャイだったなんて笑えると思うだろうね。だっていまはこんなにうるさいんだから。でも、とにかくそのときはただもう目立たないようにして、そこにいたすごい選手たちからできるだけ学ぼうとしていたんだ。
そうして、ぼくはいっそうたくさんのことを学んでいった。トレーニングではカーディフでやっていたレベルのペイスに慣れていたものだから、アーセナルでの最初のいくつかのセッションはかなり大きなステップアップになったね。最初のトレーニングセッションでは、一連のマネキンワークをやり、ワンタッチパスルーティーンをやった。そこでプレミアリーグに要求されるレベルの高さに追いつくには、まだまだ長い道のりがあることを思い知ったんだ。クオリティ、パスの正確性やクリスプネスといったものは、ぼくが知っているもののはるか上をいっていた。だから集中しなければならなかったし、自分が試された。
最初は、かなり急速な学習曲線になったんだけど、ぼくのあたまのなかにはずっとひとつの目標があった。それは自分がなれる限りのベストプレイヤーになるということ。そのためには、自分がこれまでにやっていたよりももっとハードワークが必要だったことがわかるんだけど、いつかそのレベルに達するために、アーセナルにはチャンスを与えてもらえるとわかっていた。
アーセナルでのチャンス。AWへの感謝「ヴェンゲルのおかげ」
それだけじゃなく、クラブはぼくがまだティーンネイジャーだったにも関わらず、継続的にレギュラーのファーストチームフットボールをプレイするチャンスを与えてくれた。カーディフを離れたときにそれはぼくのなかでひとつの疑念だったんだ。もしかしたらここへ来たらプレイする機会が減ってステップバックになるんじゃないかって。でもありがたいことに、そういったことにはならなかった。
ぼくはこのチャンスを与えてくれたクラブにはほんとうに感謝している。それとアーセン・ヴェンゲルにも感謝しなきゃならないね。ぼくに成功するためのプラットフォームを与えてくれたのは彼だ。とくにこういった初期にね。(若年という)比較的短い時間のなかで、ぼくはボスやまわりにいたワールドクラスの選手たちからたくさんを学ぶことができた。ぼくはいつも彼らを間近で見ていたし、とくにミッドフィルダーだね、そして自分自身がもっといい選手になるために、彼らのプレイから盗もうとしたんだ。トマスのペイスの爆発、サミルのクロースコントロール、セスクのワンタッチパス……。ぼくは彼らのプレイから好きなものを選んで、すべてを自分のものにしようとしたんだ。
見ていただけじゃないよ。必要なときは彼らに直接アドヴァイスを訊いたりもした。経験ある選手たちがみんなぼくを助けてくれたよ。ぼくにとってセスクは、どのトレーニングセッションでも図抜けた選手だったなあ。あのときの彼はぼくのポジションでプレイしていて、数々のアシストやゴールがあった。パスの能力ももちろん、彼はただもうブリリアントだった。
いま振り返ると、それくらいの年の選手キャリアにとって、そういったことがいかに大きなインパクトがあったかはわかってもらえないかもしれない。そういったことが当たり前だと考えるかもしれないし、考えるまでもないかもしれない。だってファーストチームに飛び込んだのだから、つぎの試合に集中していればいいだけじゃないかってね。まあね、それは2010年の2月のある夜まではたしかにそうだったんだよ。
2010年の大ケガ。家族、ファンのサポート「トテナムのファンからも励まされた」
そこで起きたことははっきり思い出せるよ。タックルが入ったあと、ぼくは自分の足が折れておかしな方向に曲がっているのが見えたから。最悪の事態が起きたと恐ろしくなったね。ぼくはまだ19で、ぼくの足がおかしいことになってる。つぎに何が起こるかなんてわからなかった。
メディカルチームが飛んできてぼくにガスと酸素を与えた。そして気づいたら救急車に乗っていた。病院へ向かっているとき、ドクターから自分たちがなんとかするからってストレートに云われたな。それでぼくは自分がどこにいるか気づいたんだ。ぼくはそのことばを信じたし、そしてメディカルスタッフやスペシャリストたちが、ぼくがメンタル面でもきっとそれを乗り越えられると信じてくれた。
骨のなかに金属のロッドを入れるために、彼らはぼくのひざの皿をどけなければならなかった。そしてそれをふたつのネジで留めた。そこから新しい骨が育つので、今度はもうメディカルのプロたちを信じるしかなかった。以前のフィットネスを取り戻すためにね。
ぼくにはファンタスティックな家族と友人がいる。あのときはだいぶ助けられた。それまでよりも彼らと会ったり一緒にいる時間が増えて、それはナイスだった。それはそれは大きな助けになったよ。それに、いろいろなタイプのファン、世界中のファンからのサポートもあった。
たしかクラブのウェブサイトには8万ものメッセージがあったり、たくさんの手紙ももらった。トテナムのファンからすらもね。彼はこういっていたよ。キミはほんとうに才能ある選手だ、ぼくらだってキミができるだけ早くカムバックするのを願っているってね。
ケガからのカムバックと13-14シーズン
そういったサポートのおかげで、10月にはトレーニングに戻れた。ケガから8ヶ月だ。でもまだしっくりいってなかった。ランとジョグを始めただけだけど、いくつかのパスドリルをやっていたとき、ぼくの試合勘は完全に戻っていないとわかったんだ。だからボスはぼくをノッティンガム・フォレストとカーディフに送ることを決めて、試合に慣れるようにしてくれた。
アーセナルに戻ったとき、とにかくは自分の身体に自信を取り戻すことだと思った。それができてからはものごとがうまく行き始めた。ほら、あんなケガを経験してしまったら、自分の身体を100%信頼できるようになるまでしばらく時間がかかるものでしょ? でも2シーズン後クラブに戻ったあとに、それがやれたと思ったのが2013/14シーズンなんだ。
ぼくがケガをしたあとは、ボスは何度も何度もおしゃべりをしてくれた。いつもこんなことを云っていたな。「まわりの云うことを気にするな。キミができることをわたしは知っているから」ってね。そのシーズンにはぼくができることをちゃんと見せることができたと思う。それに、それができたのは、ぼくが以前に起きたことなんかをまったく気にしなくなったからなんだ。雑音はブロックして前進することだけに集中して、全力でタックルにも行けたのも3年ぶりだったし、ハンドブレーキを解除してプレイできた。すべてのことについてフルコミットしていたよ。
後悔のないようなシーズンにしようと、なんでもやった。そしてそのシーズンは9つのゴールをセットアップしたし、34試合で16点を得点した。いくつかのいい得点もあったね! ノリッチ戦のボレイ、それにリヴァプールでのストライク、サンダーランドでもあったな。でもぼくのフェイバリットはウェンブリーでのものだな。
FAカップヒーロー「FAカップのタイトルは最高のご褒美」
子どものころから、FAカップでのウィナーを決めたかった。そして実際それをやってみて素晴らしいフィーリングだったし、ずっとこころに残っている。思い出せるのは、ボールがなんとかオリーに渡ったんだ。そしてその後ろを駆け抜けて、彼にバックヒールのオプションを与えようとした。迷いはまったくなかったね。それはただそういったパスのうちの1本で、ぼくは走り込んで初めてそれがヒットした。うまいことボールをストライクできて、それがボトムコーナーに吸い込まれたんだ。
直後の感情はもう圧倒的だったな。そこにはすべてがあり、ただもうグレイトでグレイトなフィーリングのある試合だった。そして最後のホイッスルで、2008年に来たときに夢見ていたトロフィを勝ち取った安心感で満たされた。
そのゴールはぼくにはすべてで、ただただ最大のご褒美だった。それから2回トロフィを掲げることができたこと、別のファイナルのチェルシー戦で得点したこともあった、それもアンビリーヴァボーだった。
ぼくがこのクラブに来てからほんとにいろいろなことが起きたんだ。ピッチ上では真のワールドクラスプレイヤーたちとともにプレイしたし、いくつかのトロフィも取った。ピッチの外では家族もできた。ぼくの責任という意味では、ロンドン・コルニーの駐車場に入っていったあのときからだいぶ違うものになった。
ここではぼくの人生の11年を過ごした。フィールドのなかでも外でもたくさんのことが起きた。ここでほんとうに成長したんだ。こんな長いあいだ、このクラブでプレイできるチャンスを与えてもらえたことには、もう感謝しかない。
ファンは何年にも渡っていつもぼくをサポートしてくれた。悪いときもあったけどたくさんのいいこともあって、彼らとの絆はより強まっていったと思う。なぜならぼくはこんなにも長いあいだここにいて、いいときも悪いときも、どんなときだってぼくと一緒にいてくれたのだから。
彼らはぼくが少年から男になるところを見守ってくれた。ぼくにいつもよくしてくれた。このワンダフルなクラブをとても恋しく思うだろう。いまはお別れを云うときだ。goodbyeになにか付け加えるとしたら、このことばかな。
Thank you.
アーロン・ラムジー
以上。COYG
こっちが Thank You. ですよ。(T_T)
このメッセージ。彼を切ったヤツに叩きつけたい!
ここに書かれていることがアーセナルそのもの。
AWがこうやってチームを育ててきた。(戦術の批判と監督交代は受け入れる・・・)
チェンさんが昨日仰ったように、内部昇格がこのチームには必要だと思います。
あとはバクーで、彼にトロフィーを挙げさせてあげましょうよ!
ありがとうラムジー。おれたちも忘れない。
改めて思い知らされるベンゲルの偉大さ。孫を思うおじいさんのような。
同時に思うベンゲルの無念。ラムジー、ジャック、そしてディアビがあのときリタイアしなければ、かなり違った歴史になっていたのだろうなと、おれたちのチルドレンの違った未来を思い描いてしまいます。
ほんとに、どうして彼を出す決断をしたのでしょう。何であれとにかく理由が知りたい。
この1年半でヴェンゲルさんがクラブに残したものがほとんどなくなりましたね。
もちろんスタジアムやトレーニンググラウンドなど、クラブの基盤となるハード面の資産は残ってますが、フィロソフィーというか、ロマンというか、目に見えないものの喪失感がハンパない。
それを目に見える形にしたのが、まさにこのラムジーの件かなと。
ノースロンドンのライバルに自分たち以上の機能を誇るスタジアムを作られ、守備は改善せず、自分たちの形すらもてないままの高齢化が進むチームの未来はどうなるのでしょうか。
若手を見守ってきた好々爺も、それを許してきたクラブCEOももういない。
なくしたものを数え出すとキリがないんですが、ジンベエならこんな時でも失ったものばかり考えるな!お前にまだ残ってるものものはなんだ!と怒鳴ってくれるのでしょうか。
ほんと、怒鳴ってほしいです。
泣ける。
泣ける。居なくなって分かるこの漢の偉大さ。今季のNLDでの活躍も忘れないよ。