先日、メスト・エジルが34才で現役引退を発表していた。
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— Mesut Özil (@M10) March 22, 2023
彼がアーセナルからの移籍先にトルコリーグを選んだとき、すでに第一線でのキャリアは一段落していて、その後の彼の選手としての活動はあまり注目されていなかった。
それでも今回、やはりフットボール世界がエジル引退のニュースに大きく反応したのは、いかに彼が類まれなフットボーラーであったかの証拠だろう。
そのエジルが、引退に際して『Marca』のインタヴューにこたえていた。
Mesut Özil: “I had tears in my eyes as the plane took off from Madrid”
このやりとりが、彼の現在の心境や現役当時のことなど、ひろくキャリアを振り返る内容になっていて、このブログでも記しておきたくなった。
すでに各所で紹介されているだろうが、未読のかたはお付き合いください。
エジルからの引退メッセージ
これもざっと訳しておこう。
やあ、みんな。
熟考の末、ぼくはプロフットボールからの引退を発表することにした。
ほとんど17年ものあいだ、ぼくにはプロフットボール選手でいられるという特権があった。そしていまぼくはこの機会を得られたことにすごく感謝している。でも、ここしばらくぼくはケガにも苦労していて、フットボールの大舞台からは、去るときが来たんじゃないかとますます思うようになっていた。
これは、忘れられない思い出と感情で満たされたとてもすばらしい旅路だった。ぼくのいたクラブにも感謝を伝えたい。シャルケ04、ヴェルダー・ブレーメン、レアル・マドリッド、アーセナルFC、フェネルバチェ、Başakşehir。ぼくを支えてくれたコーチたち、友だちになってくれたチームメイトたち。
家族や親しい友人たちにもスペシャルサンクスを送らねばならない。彼らは始めからずっとぼくの旅の一部であり、いいときも悪いときも、ぼくに愛情とサポートをくれた。
状況がどうあれ、所属クラブがどこであれ、ぼくのことを愛してくれたファンのみんなにもありがとうを。
今後は、ぼくの美しい妻Amine、ふたりの美しい娘EdaとElaといっしょにやっていくことのすべてを楽しみにしている。でも、ぼくのことは今後もひんぱんにぼくのソーシャルメディアチャネルでみんなにも聞いてもらえるはず。
また会おう。
メスト
メスト・エジルのロングインタヴュー by Marca
『Marca』はもちろんスペインのメディア。彼らがエジルに話を訊くのは7年ぶりらしい。※小見出しは訳者による
早すぎるリタイヤとこれから
(これであなたは引退となりました。あなたはいま、あるいはかつて、自分のことを「マジシャン」だと思ったことは?……)
エジル:自分をそんなふうに呼んだことは一度もないね。でも、わたしはピッチのうえでは、いつでも誰も予想しないような動きやパスをしようとはしていた。だからそういうニックネイムがあるんじゃないかな。それと、それがもしステディアムのファンを楽しませるという意味ならば、まるでマジックショウを観ているかのような、それなら、そんなふうに呼ばれるのはすごくうれしい。
(あなたの記録を振り返ってみましょう。114のゴールに222のアシスト。いちばん楽しかったのは?……)
ゴールにアシスト、それかプリアシストでも。そんなの誰も数えないけどね! 結局は、チームで試合に勝つことさ。わたしは、いつだってチームメイトたちができるだけ輝けるようにしようとしてきた。それがわたしのフットボールのスタイルだったと思う。チーム全体にもそんなふうに思っていてもらいたかった。だって、ピッチのうえでエゴイズムが勝つことはないのだから。だから、みんなからもっと利己的になってもっとシュートしろと云われても、わたしはまったくわからなかった。
(あなたのキャリアでいちばん最初の記憶は?……)
子どもの頃、おまえは成功しないとよく云われていた。わたしはすごく小さかったから…… そんなのとか。でも、わたしはそんなに気にしなかったし、自分のことに集中した。
シャルケで初めてプロ契約をしたときは有頂天だった。初めてブンデスリーガでプレイしたことも。あとはレアル・マドリッドでプレイしていたことや、ワールドカップを勝ったのはもうボーナスだった。いろいろ信じられないことがあった。でもわたしのキャリアのハイライトというのなら、それはもちろんワールドカップ2014を取ったこと。それ以上のことはない。
(あなたはまだ34才にすぎない。こんなに早くリタイヤするのは悲しくない?……)
最終的に、それが正しい決断だと確信したんだ。幸運なことに、わたしはキャリアでのそれほどケガはしなかったし、つねにフィットしていた。でも先月は非常にヘヴィで、かつてやっていたようにピッチでチームを助けることができなくなっていた。だから、わたしはBasaksehirに自分の考えを伝え、すぐ解決策を見出すことになった。
(これから「エジル」はどうなる? フットボール世界に残りたい?……)
来月、あるいは来年なにが起きるかは、まだ100%はわからない。でも現時点では、ターキーで家族との時間を過ごしている。わたしには、美しい妻とふたりの娘がいて、子どもたちの成長を観ていたい…… 娘たちは、わたしが人生で得たなかでも最高の贈り物であり、彼女たちと楽しんで暮らしている。
とりあえずは、マネジャーになるとかフットボールビジネスに残るとかの計画はない。わたしは17年間もフットボールビジネスにいて、十分その時間を楽しんだ。とても感謝しているし、恵まれたとも感じる。
でも、わたしのこれまでを知っているひとなら誰でもわかるように、表舞台にいたいわけじゃないんだ。インタヴューとか、公衆の目にさらされるとか。これからは、わたしは人生をもっと穏やかに楽しむつもり。
(自分のキャリアでもっとも誇らしいことは?……)
ゴールでもアシストでも勝利でもタイトルでもない。それよりも、わたしの名前をつかって気づいてもらえるというチャンスを得たこと。そしてわたしにとり重要なトピックにリーチできること。恵まれないひとたち、とくにアフリカや南米のひとたちになにか送り返すことができること。
わたしのキャリアが終わっても、この活動が止まることはないとわかるはず。これは、わたしの母からの教えなんだ。わたしがとても誇らしく思っているものだよ。
シャルケ、ブレーメンでの思い出
(シャルケでのプロとしての初試合で覚えていることは? フィールドに出るまえ、コーチになんと云われた?……)
その当時のわたしはとてもシャイだった。それでも、自分のスキルに関しては、すでにかなり自信を持っていたけど。Mirko Slomkaがコーチだった。彼からは、ただ楽しめと云われたから、そのとおりにした。
あれは2006のEintracht Frankfurt戦だった。60,000のファンがいて、全員がわたしの名前を叫んでいた。あれはすごいフィーリングだった。当時のヨーロッパでも最高のステディアムのひとつで、全身に鳥肌がたった。
(そのあとブレーメンに行き、南アフリカでのワールドカップがあり…… そしてマドリッド。どんなふうにサインしたか覚えてる? レアル・マドリッドで初めて電話をくれたのは誰だった?……)
あれは、レアル・マドリッドとFCバルセロナのどちらにするかの決断だった。最後には金の問題じゃなかった。当時わたしはマドリッドとバルセロナを訪れ、その違いはジョゼ・モウリーニョだった。彼がわたしはレアル・マドリッドのVIPツアーに連れて行ってくれた。そこでわたしは、すばらしいステディアムと彼らが勝ち取ったすべてのトロフィを見学した。あれは鳥肌がたった。
バルセロナを訪れたときは、そこまで情熱的ではなかった。いちばんがっかりしたのは、ペップ・グアルディオラがわたしに会う時間もなかったこと。行くまえは、わたしはバルセロナのスタイルがかなり好きだったし、彼らに加入するイメージもあった。
だから、ジョゼ・モウリーニョがその決断におけるもっとも大きな要因だった。その訪問のあと、わたしの決断は100%固まった。自分はマドリディスタになりたいと……
(ブレーメンはあなたの退団を許さなかった。移籍が破談になるんじゃないかと心配した? その当時はどんな心境だった?……)
わたしが覚えているのは、ふたつのクラブのあいだでタフな交渉があったということ。でも結局ヴェルダーは夏にわたしをフリーで手放したくはなかった。それがわたしがつねにその移籍が実現すると信じていた理由なんだ。わたしは、ブレーメンのSDのKlaus Allofsに伝えたよ。わたしはどうしても移籍したいと。なぜなら、人生のなかでこんなチャンスがふたたび訪れるかどうかわからないのだから。
レアル・マドリッド時代
(そしてレアル・マドリッドへ。自分のお披露目の日を覚えている? なにかエピソードがあれば……)
わたしは当時はまだ21才だった。すでにヴェルダーでプレイしていたし、2010ワールドカップでもプレイしていた。でも、それでもあんなにたくさんのフォトグラファーやジャーナリストに囲まれたことはなかった。あれは対処が難しかった。とても緊張した。あれはとても特別な日だったからだけど。レアル・マドリッドみたいに新しい選手を紹介するクラブはほかにないから。
わたしは理解した。Okay。Wow。これがネクストレヴェルなのかと。あるいは、ただネクストレヴェルというだけじゃない。ヴェルダー・ブレーメンとは、カテゴリが違う。
(マドリッドでのデビューし、ベルナベウはあなたに恋しました。レアル・マドリッドのファンとの関係をどう説明する?……)
とてもすばらしかった。マドリッドを去ってから10年たってさえ、いまだにソーシャルメディアでレアル・マドリッドのファンが応援してくれる。これはほんとうにすごいこと。わたしたちはとてもよい3年間をともに過ごし、わたしがいつだって偉大なクラブのために全力を尽くしたのをファンは観てきた。でも、これほど時間がたってもまだ彼らがわたしをサポートしてくれるなんて、思いもしなかった。わたしができることはありがとうと云うことくらい。
(マドリッドでは、あなたはモウリーニョにコーチされていました。モウとの思い出は?……)
ドレッシングルームでのわたしと彼との特別な話はみんな知ってるよ(笑)。わたしたちはとてもいい関係があった。彼は、わたしにどうやる気を出させるかわかっていたし、どうやってもっといい選手にするのかもわかっていた。
彼はただもうすばらしいマネジャーであり、彼の下でプレイできることは非常に誇らしかった。
(あなたはピッチではクリスチャーノ・ロナウドのベストパートナーでした。ふたりは世界一の攻撃パートナーだと思う?……)
クリスチャーノ・ロナウドといっしょにプレイするのは、とても楽しかった。わたしにとって彼はオールタイムベストの選手だ。わたしたちには、ピッチでとてもよい相互理解があった。あれは完璧だった。
(マドリッドでは、あなたはセルジオ・ラモスともとてもよい友情があった。彼とはまだ友人関係がある? 連絡は取っている?……)
セルジオ・ラモスは、わたしがいっしょにプレイしたなかで最強のキャラクターがあり、最高のディフェンダーだ。当時の彼はまだかなり若かったが、彼にはもうとても強いメンタリティがあった。あれはすばらしかった。いずれ彼がレアルを率いてCLタイトルに導くのは時間の問題だった。彼はほんもののボス。
彼は当時のわたしの親友のひとりだった。たくさんいっしょに楽しんだし、トレイニング以外でもよくいっしょに過ごした。わたしが早くレアル・マドリッドに馴染めたのは、彼がキーだった。彼には、かなり助けてもらった。
あれから10年以上たっても、彼とはまだ連絡を取り合っているよ。よくテキストのやりとりもするし、もちろんわたしもずっと彼のキャリアを追っている。
(バルセロナとのクラシコの思い出は? クラシコはあなたがプレイしたことのある試合のなかでももっともインテンスだった?……)
わたしがマドリッドにいたころ、「エル・クラシコ」は頂上決戦みたいだった。2011のUCLでもそれがあった。あれはモウ vs ペップであり、クリスチャーノ vs メッシであり。いまの「エル・クラシコ」は、インテンシティも興奮もすこし物足りなくなってしまった。
当時バルセロナを倒すことは、まるでオーガズムみたいだった。すごかったんだ。2011には、わたしたちは5-0で敗けたこともあって、あれはわたしのキャリアのなかでも最悪の悪夢のひとつだった。
わたしもたくさんのダービーでプレイして、ハイクラスのデュエルもたくさんあった。でもそうだね、たしかに「クラシコ」はもっとも特別なものだ。
(あなたはラ・リーガで勝ち、コパ・デル・レイで勝ち…… でもCLは取らなかった。あなたのマドリッド時代では、それが唯一の傷? もっと傷ついたものもある? セミファイナルのバイエルン戦、あるいはボルシア戦……)
CLで勝つことは、ずっとわたしの夢のひとつだった。でも、そういうものさ。望みがすべてかなう人生などない。それに、わたしはワールドカップタイトルとCLタイトルを交換もしないよ。
ドルトムントとのセミファイナルのほうが傷ついたな。ひとつは、わたしがシャルケ出身だということ。ボルシア・ドルトムントとはビッグライヴァルだから(笑)。もうひとつは、すごく惜しい勝負だったから。わたしたちは、ファーストレグでコントロールを失ったが、セカンドレグではすばらしく強かった。結局たった1ゴールが違いになった。
(そしてマドリッドに別れを告げることに…… 退団が決まった夜の気持ちは? 喜びがあったのか、悲しみがあったのか……)
空港でマドリッドを去るときは、ほんとに悲しかったよ。クラブや街での3年をすごく楽しんだから。でも、Mrペレスとのいざこざもあってからは、わたしも試合でプレイしなくなっていた。わたしの父とエイジェントが新しいクラブを探す必要があった。
飛行機がマドリッド空港を発つとき、わたしは涙すら流した。これで終わったんだなと。
(もしあのときに戻れるなら、決断を変える?……)
当時はそれが正しいと感じた。わたしの父とMrペレスが衝突したあとだったから。退団しなければ、試合でプレイできないと心配していたんだ。だから、それを云うのは難しい。だがもちろん、あの状況を違うように対処できればよかったとは思う。
(退団後にフロレンティーノとは会った? 今度彼に会ったらなんと云う?……)
退団はもうだいぶ前のことだ。もう誰とも問題はないよ。つぎにわたしたちが会ったとしても、まったくふつうに会話ができるはずさ。
(新ベルナベウには招かれたい? またステディアムに来ることはある? ファンはまたあなたに会いたがっている……)
パリでの2022のUCLファイナルには、わたしもレアルを応援するために行ったよ。でも残念ながら、自分のスケジュール上、あと数年はベルナベウへ行くことはできない。その計画はないけど、しばらくしたらうまくいくといいと思っている。そうなれば、うれしいよ!
そしてアーセナルへ
(そのあとアーセナルへ。あなたはアーセナル時代をどう評価する?……)
最初の数年は、すごくよかった。CLでもプレイしていたし、たくさんのグレイトなキャラクターがあるグレイトなチームで、アーセン・ヴェンゲルというすばらしいマネジャーもいた。彼がクラブを去ったあとは、わたしにもたくさんの変化があった。
でも、わたしももう燃料を投下するみたいなことに興味はないんだ。いまは落ち着いているし、クラブのファンにはいいことがあってほしいと願っている。なぜなら、彼らはわたしをずっと応援してくれていたから。アーセナルのファンがこの夏にPLタイトルを祝えたら、わたしもうれしいよ。彼らはそれに値する!
(アーセナルでのベストの記憶は?……)
わたしのアーセナルでのベストゲイムは、2018のレスター・シティかな。3-1。
(ヴェンゲルとの関係はどうだった? 彼のようなコーチがもういないのが悲しい?……)
彼はほんもののジェントルマンだった。つねにリスペクトフルで。彼がクラブを去ったとき、なにかが失われた。
わたしたちにはいい関係があったよ。アーセナルで自分のマネジャーが彼だったことは、特権だったと感じている。
ドイツ代表
(あなたはマドリッドとアーセナルにいたときに歴史をつくった。ワールドチャンピオンになった。ワールドカップファイナルでプレイするとか、勝つというのはどんな感じ?……)
わたしのキャリアのなかでも、たくさんのすばらしい勝利があった。でも、あれは別物だ。セレブレイションの最中、そこで起きたことをしっかり考えるのは難しかった。リオでのあの夜は、わたしのフットボールキャリアのなかでも最高の夜だった。いまですら、あの試合のことを考えると笑みが浮かぶし鳥肌がたつ。なんという記憶なんだろう。
(ジャーマンNTにはなにか思うところがある?……)
わたしは燃料をくべるようなことはしたくない。結局、わたしとDFBでは違う意見があったということ。だから、わたしは2018のワールドカップのあとにNTを去った。
その数週間前、わたしはシュツットガルトでJogi LöwととてもフレンドリーなMTGを行った。わたしたちのあいだでは、まったく何も問題はなかった。わたしは彼と個人的な問題を起こしたこともなければ、とてもいいときをともに過ごした。2018のワールドカップのあと、わたしはNTとは距離を置く必要があったというだけ。
もろもろ質問
(フィールドでたったひとりだけパートナーを選ぶとしたら、誰を選ぶ?……)
最高のベストプレイヤーとしてならクリスチャーノ・ロナウドにする。ベストリーダー、キャラクターとしてならセルジオ・ラモス。ゴール前のベストストライカーなら、マイボーイ、Benzi!
(コーチを選ばねばならないなら…… 誰?……)
わたしにとって、この100年でベストマネジャーはジョゼ・モウリーニョ。彼の戦術理解はすごい。ドレッシングルームでのトークや、メディアでチームを擁護するところも。彼はほんとうにワールドクラス。
(これまでプレイしたなかでベストなステディアムは? そしてそれはなぜ?……)
悪いけど、ベルナベウを選ばざるを得ない。あとはエミレーツとフェネルバチェステディアム。その3つすべて(笑)。
(対戦したなかでベストな相手は? 理由も……)
メッシ! みんな理由はわかるでしょ……
(あなたのソーシャルワークについて聞かせてください。先日Rüdigerがあなたのワークがすごいと……)
それはわたしの母の教えなんだ。つねにお返しをしなさいと。
わたしはBigShoeという組織とよく活動している。わたしたちは、世界中で困っている1000人のキッズをいっしょに助けてきた。彼らはすばらしい仕事をしていて、わたしもその助けができることに恵まれた。トニ・ルディガーやブカヨ・サカのような選手たちがそれに参加してくれるのは、すごくうれしい。
(フットボールがスポーツとしてよりよくなるために、あなたならなにを変える?……)
わたしはGelsenkirchenのストリート出身で、いつもアマチュアのフットボール場でプレイしてきた。だから、オフサイドのないプレイかな。子どものころにいつもやってみたいに(笑)。たくさんゴールも生まれるし、楽しいよ。
(アーセナルで254、マドリッドで159、ブレーメンで108、シャルケで39、フェネルバチェで37試合。どのクラブがあなたのこころのクラブ?……)
それは個人的に答えなきゃいけない質問だと思う。ドイツではわたしはつねにシャルケ04のファンだったし、トルコではつねにフェネルバチェ。わたしには子ども時代のふたつの気に入りのクラブがあり、その両方でプレイできたことは、とても光栄なんだ。
以上
このブログでは、現役選手を「ぼく」、それ以外を「わたし」と一人称表記するようにしていて、今回エジルは引退済みなので「わたし」表記になった。なんかヘンな感じである。
インタヴューの雑感:おつかれメスト
一部の発言がアーセナル界隈で話題になっていたが、全体を読むとアーセナルに言及された部分はわりと少なかった。
Marcaはスペインメディア(しかもだいぶマドリッド寄り)だから、そちらの話題が多くなるのは当然だと思う。
が、エジルの17年というキャリアのなかでも、2013から2021まで長く過ごしたアーセナル時代というのは、本人にとっても楽しいことばかりじゃなかったということなんだろう。
アーセナルとドイツ代表の話題については、「(燃えているところに)わざわざ燃料をくべたくない」と述べていて、いかに当時そこで議論があったか、揉めたか、エジル自身も感じて気を使っているという。
いまキャリアを振り返ったときに、彼にとってベストなチームメイツはロナウド、ラモス、ベンゼマであり、ベストコーチはモウリーニョ。すべてマドリッドにおけるうつくしい思い出。それが多くを物語っている。
いまのアーセナルのかなり良好な状況を含めて、彼がアーセナルにいた期間を俯瞰すると、ヴェンゲル・エメリ・アルテタと3人も彼のマネジャーが変わったこともあるし、なにしろクラブとしては過渡期だった。極端にいえば、エジルは不運にもアーセナルFCがかなり不安定で、とくに悪いときに来た選手だったと云える。
もっとも、彼はメインマンとして当初はパフォーマンスでチームにかなり貢献したが(繰り返すように、彼がPLのアシスト記録をつくった15-16にアーセナルはタイトルを取っているべきだった)、本質的にはチームの悪い部分を改善できなかったし、あるいはもっと悪くした当事者のひとりでもあったので、状況のせいだけにもできないのがツラいところ。
エジルは、フットボールの歴史においても、かなりユニークな選手のひとりであり、彼のようなタイプとモダンゲイムという、時代的な視点からもいろいろ語りどころはあるのだろうが、それについては過去にこのブログでもしつこいほど書いたので、今回は控えよう。
アーセナルにおけるエジルは、多くの期間で議論な存在だったが、それでもあの不世出の才能をリアルタイムで楽しめた幸運に感謝したい。いいときの彼のプレイを観るのは、ほんとうに眼福だった。そのプレイをスタイリッシュと形容したくなるような選手というのは、もうそれほど多くない。
Thanks for the memories – wishing you all the best in your retirement, Mesut ❤️ pic.twitter.com/sqDFl3esj2
— Arsenal (@Arsenal) March 22, 2023
とにかくお疲れさまだ。
おわり
優勝には届かず、CLにも出場出来なくなってきた苦しい時代の始まりでしたが、
エジル・ジルー・カソルラ・ラムジー、ウィルシャー・ロシツキーらが躍動した楽しい時代でもありました。
彼のような世界一のファンタジスタがアーセナルに来るなんて、ありえないと思われていた時期でしたからね。
最後は残念な退団になってしまいましたが、私は今でも大好きな選手の一人です。