こんにちは。
インターナショナルブレイクで少しご無沙汰。アーセナルのない日々はつまらんすね。
さて今回は、いささか旧聞に属するような話になってしまうが、アーセナルの元スカウト部長(Head of recruitment)、いまはシュツットガルトにお勤めのスヴェン・ミズリンタットのインタヴューを紹介したい。
Mislintat exclusive: I don’t feel ashamed of any of the transfers at Arsenal
今年3/9に『The Athletic』(※要課金)で発表された彼の独占インタヴューから、アーセナルにまつわる部分だけ。
基本的には彼のキャリア全般にフォーカスされた記事だが、そのなかでアーセナル時代についても多く語っており、アーセナルのファンにとっても興味深いものとなっていると思う。
インタヴューは、ドイツ情報Tier1ジャーナリストのRaphael Honigstein。
ではざっくりとHere we go.
スヴェン・ミズリンタットのインタヴュー。アーセナル退団の舞台裏、マヴロパノス、ゲンドゥージについて語る
<前略>
(あなたはドルトムントでマッチアナリストとスカウト担当としてキャリアを始めました。そしてアーセナルではヘッドオブリクルートメントに。その後にはシュツットガルトでスポーティングダイレクター。このあいだに実質的な仕事に変化はありましたか?)
ミズリンタット:旅だったね。わたしはボルシア・ドルトムントの従業員として働き始める前、最初に彼らに接触した理由は自分がチーフアナリストとしてすでに仕事をしていたから。ブンデスリーガクラブスのほとんどと、GFA(German Football Association)を顧客に持つサーヴィスプロヴァイダで働いていた。
われわれの会社では、試合を多角的に調査した独自の動画や分析を、マネジャー、コーチ、アナリストたちに提供していた。2002シーズンの当時、わたしはMatthias Sammerと彼のアシスタントだったUwe Neuhausと一緒に働いていた。BVBがチャンピオンシップを取った年だね。それが最初のつながりだった。
そしてラッキーなことに、わたしはその4年後の2006年には新しいスカウティング部門のたったひとりの担当者としてスタートすることになった。当時のクラブは破産を免れることに精一杯で、ほとんどお金はかけられなかった。データ革命は実質的にはまだ起きていなかった。
わたしの最初の仕事はテクニカルスカウト。データを用意して、トラッキングして、スカウティングシステムをつくる仕事だ。そのすぐあとにわたしは一時的にヘッドスカウトになり、またその1年後にはフルタイムでやることになった。Michael Zorc(スポーティングダイレクター)の右腕をやりつつ、同時に試合分析もやるようになったんだ。わたしは古典的な意味でのスカウティングを超えたトピックスに関わっていた。大量の作業があったが、クールな仕事だったよ。
ドルトムントはマイクラブであり、わたしのような3部とか4部リーグのクラブでしかプレイしたことのないものが、そこで働けたことはグレイトだった。
(そこからアーセナルからお呼びがかかった。ドルトムントを去った理由はトーマス・トゥヘルが決め手になった?)
そうでもない。わたしがドルトムントを去ったのはトーマス・トゥヘルが来てから半年後くらいだった。わたしがドルトムントからアーセナルに転職することを決めたとき、わたしにはBVBがすばらしいクラブに見えていたし、とても強いポジションにいた。ジェイドン・サンチョをマンチェスター・シティから取ったばかりで、とてもバランスがよく、ワクワクするスクワッドでブンデスリーガのトップにいた。新しいマネジャーのPeter Boszの下でかなりよくやっていた。
2017年10月、わたしはボルシア・ドルトムントで11年働いたことになる。わたしは別の環境で自分をさらに高めたいと思ったんだ。そしてありがたいことに、アーセナルでのチャンスがあった。
(アーセナルからの関心を特別なものにしたものは何でしょう?)
アーセン・ヴェンゲルからのアプローチは、とてつもないオナーであり栄誉だった。
わたしの個人的な青写真のなかで、アーセナルはつねにベンチマークだったんだ。わたしがドルトムントで始めたときもそう。2006年の彼らはロールモデルだった。フランスでもどこでも未発掘の若いタレンツを使ったワンタッチフットボール。彼らを育て、いい金額で売る。
当時の彼らは、まだバルセロナの影響下にあるポゼッションフットボールをプレイしていたわけではなかった。早く、縦で、クイックなトランジションがあり、ドルトムントがベストのときのそれにフィットするタイプのフットボールだった。模範的リクルート戦略も。
アーセンは、あまり多くのことを行わずにそれをやることを芸術と捉えていた。それがわれわれが正確にフォロウしていた道筋であり、それはいまもまだわたしがシュツットガルトでフォロウしているアプローチでもある。ドルトムントはよくクラブの買収をやっていたが、いまはもう財政的にそれは不可能になっている。
ベストなアイディアというものは、しばしばニーズから生まれるものであり、それこそが実際に起きていることだ。いくつかのよい決断とユルゲン・クロップがマネジャーだったことによって、ドルトムントはまたトロフィーズを得ることができたし、効率的にもなれた。わたしはそのすばらしいプロジェクトに関われたことがラッキーだった。すばらしい人々のグループに。
(そしてアーセナルでは?)
そのときアーセナルには、スポーティングダイレクターもテクニカルダイレクターもいなかった。アーセンがすべてを見ていたんだ。英国のマネジャーらしいアプローチと云える。わたしの役割はヘッドオブリクルートメントで、スクワッドプランニングにおいてアーセンのパートナーを務めた。
アーセンが去ってからは、わたしはクラブのエキスパートグループのなかで重要なテクニカルロールを担った。そのグループには、アイヴァン・ガジーディス(CEO)、ラウール・サンレヒ(head of football relations)、ハス・ファーミー(director of football operations)、ジェイソン・ローゼンフェルト(head of analytics)がいて、のちにヘッドコーチとしてウーナイ・エメリが入った。
わたしは全員といい関係があったよ。だが多くのトピックスで、わたしたちの責任範囲から、ハスとジェイソンとはもっともよく一緒に働いた。それ以来われわれはよき友人にもなった。彼らはとてもグレイトな漢たちで、わたしのフットボールキャリアのなかで出会ったひとたちのなかでもベストなふたりで、才能があふれていた。
ハスはほんとうに進歩的な考えの持ち主で、彼は多くの異なる領域でスマートに仕事ができるとんでもないキャパシティがあった。ひとあたりもすごくよくて、とても誠実だった。とりわけ、彼がいつでも彼が信じるところに立ち向かっていくことは高く評価している。いつでもものごとを改善しようとプッシュしていた。ジェイソンも同じ。彼は複雑なことに対応する尋常じゃない能力があった。彼の試合における知識は一流で、いつでもベストソリューション探しに取り組んでいた。
わたしは彼らとの仕事を楽しんだよ。また彼らと一緒に仕事ができるならワクワクするだろうね。
(結局なぜにアーセナルを去ったので?)
わたしがアーセナルに入ったのはアーセンと仕事をするためだった。そしてプレミアリーグというベストコンペティションで自分を証明するためだった。わたしの計画では、フットボールの歴史上ベストのマネジャーズから学ぶことであり、彼らが可能なかぎり勝てるようサポートしチャレンジすることだった。
そして、彼がマネジャーとしてのキャリアをストップするその日には、もしかしたら彼がボードのレヴェルから変えていくことを観察することになるかもしれなかった。アーセナルの価値とフィロソフィ、そして彼の取り組み、野心、伝統を守るために。
アーセナルがシーズン終了後に去ってから、数ヶ月後にはアイヴァン・ガジーディスがミランでCEOになるために去った。そこにはアーセナルでリーダーシップの再構築があった。
わたしは新設のテクニカルダイレクターロールをやることになり、ラウール・サンレヒとヴィナイ・ヴェンカテシャンが、アーセナルのCOリーダーシップとしてアイヴァンのあとを引き継いだが、結局彼らはほかの誰かにそれを任せることに決めた。
そしてわれわれはお互いをとても尊重したやり方で、わたしの退団に合意した。すべてまったくもって何の問題もなかったよ。
当初、わたしは数ヶ月は休むつもりだった。ほかのことばも学ぶために。あと下手くそなサーフィンのレヴェルも上げたかったしね(笑い)。それとスポーツとビジネスで魅力的な人物について意見交換をしたりとか、とにかく学んだり成長したりするために活動するつもりだった。
しかしWolfgang Dietrich(VfB Stuttgartのプレジデント)からお呼びがかかって、数日後にはシュツットガルトのプロジェクトにさっそく取り組まなきゃって思えたんだ。
ご紹介ありがとうございました😊